2015/10/21

44年生きて思う事。


20歳代後半、歳をとる事が待ち遠しくてならなかった。
若い容姿、年齢が障壁となり誰からも責任ある仕事をまかせてもらえなかった。
能力も頭脳も十分だと自負していても現実とは乖離していた。
ただただはがゆく、自分が歳を重ねる事を心待ちにしていた。
誕生日は喜びだった。

30歳。
30にもなってミュージシャンをやっている。
それだけ本気なんだろうと周りが年齢基準でそう考えるようになった。
少しずつだが責任を与えられ、後ろ盾がなくても大きな案件をあずけてもらえるようになった。
仕事に追い風が吹きはじめ体力も気力も十分。
知識も深まりテクニックにも磨きがかかりやれることがどんどん増えていった。
経験値もキャリアとなり精神力も養われていった。
39歳くらいまではその傾向が強まり誕生日はまだまだ楽しい日であった。

40歳。
とうとう超えてしまった一線。
年齢によるディバイドはなくなった。
上にむけて登ってゆけばだれもはしごをはずさない。
あとは自分自身の実力の問題。
年齢はようやく関係なくなって全方位にむけて成長できると信じていた。

41歳。
厄年。
自分にはそんな迷信は通用しないとたかをくくって生きていたが神様は例外を認めず、痛風発作というこれ以上ない罰で僕の自由を奪った。
およそ二年間体調不良は続きつごう4回の痛風発作にみまわれて夜間救急外来の常連になっていた。
身体の痛みは次第に心を蝕み、何をするにも自信を喪失していた。
もはや仕事でも人生でもなく、ただただ現状維持をするのに精一杯なまま2度の誕生日はスルーされた。

43歳。
運動と投薬によってようやく健康体に戻る。
体力にも自信がつき仕事の幅、人生の幅があとは増えるだけ、と思っていた。
社会はめまぐるしく動き右往左往。
気がつけば旧友は音楽をやめ帰郷、世話になった人々もレコード会社を去り環境は一変。
自分が手に入れたと思っていたものがいつの間にか指先からこぼれ落ちていた。
こぼれおちた想いは風の中に消えもう取り返す事はできない。
「後悔」という言葉の意味をようやく痛感するようになる。
とても痛く、苦しい。

44歳。
くよくよしている訳ではない。
僕が感じた真実を受け止めているだけ。
ならば後悔はしたくない。
いまならまだ間に合うものもある。
まずはそれを取り返し、けりをつける。
20歳代とは違う動機が自分をハングリーにしている。
根源は違っても情熱にあふれていること。
これが大事なんじゃないだろうか。